Otona no Kadaitosho

2019.11.26

古今無二路

先日のお稽古場の掛物は、長谷川寛州和尚筆「古今無二路」でした。
「今も昔も賢者のゆく道は一つ」という意味の禅語だそうで、
二兎追うものは一兎も得ずという解釈もあれば、
今も昔も賢者は同じ道にたどり着く、
という意味にもとれるかと思います。
 
深い知識はありませんが、例えば哲学について言えば、
古今東西の哲学者達は「人とはなにか」ということをありとあらゆる角度から考えて、
考えあぐねて、今も尚考え続けているわけですよね。
思考を突き詰めていけば、必ず皆同じ道にたどりつく、そういうことかと思います。
 
しかし紀元前から考えてるのに、まだ正解が出ない問いって面白い。
正解はないけど、答えは出てるんですけどね。
「わかりゃしない」って答えが。
 
人としてなぜ生まれてきたかもわからず、なぜ死にゆくのかもわからない。
生まれた時には記憶がなく、死ぬことは未経験なのだから、わからないのは当たり前なんですよね。
今も昔もそれがわかる人なんて、この世にはいないはずなんです。
 
でも人は考える。あーでもない、こーでもない、色んな言葉を使って表現してみる。
無駄だな~と思うけど、そこにたまらなくロマンを感じます。
 
 
哲学とか禅、あるいは宗教に、生き方指南みたいなものを求める人がいます。
哲学を学んで、対人術に生かそうなんて発想がありますけど、
なんでもかんでも何かの役に立てようとする姿勢って、なんだかとっても喉が渇きそう。
 
「役に立つ」っていうのは、この社会という決められた枠組の中で、実用的というだけですよね。
私たちは社会とか世間とかいう枠組の内側でまぎれもなく生きているわけですが、
その枠組自体が、なんにも分かってない人々(自分も含め)によって成立させている曖昧な外皮であることを忘れちゃって、
その内側にパンパンに詰め込もうとあくせく摂取するのは、なんか空しいなって思います。
 
わかんないし、無駄だし、なんの役にも立たない、
みたいな事が結構大事なんじゃないかな~と最近思ったりするのです。