Otona no Kadaitosho

2019.08.24

夏の終わり

哲学者で文筆家である池田晶子さんが、最後の著書で、
桜を見たい、また来年も見たいと深く感じ入るその感慨について、
このように書いておられました。

 

 

人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環性を見るからだ――――――
儚さは、儚いままやはり巡っている。永遠的なものを知ることにおいて、人は自分を自分と思うことの不可能と無意味を知るだろう。過去が私の人生から過ぎ去って還らないなら、私の人生の全体は、何に対して過ぎ去ったのか。

 

 

私はこれを夏に思います。
夏はいつも立ち止まっていて、セミの声は鳴り止まなくて、私だけがいつのまにか夏を通り過ぎていく、そんな気がします。
過ぎ去っていく自分というものの不確かさというか、コントロール不可能なこの人生の一回性に気づく時、改めて自然の偉大さとその永遠性に、驚きにも似た感動を覚えます。
歳を取って、自らの命の有限性に気づいたってことなんでしょうか?
もしかしたらそうかもしれません。
ただ、そういう自然の偉大さに改めて気づくと、今までつまらないなと思ってたことが、一周回って?すごく素敵に思えたりするんですよね。
ああ、これが人生の醍醐味なのかしら。とか思ったり。

 

 

大海の磯もとどろに寄する波
われてくだけてさけて散るかも

 

 

これは実朝の有名な歌ですけれども。
別に今までリズム感がいいな~くらいにしか思ってなかったんですが、
この波のこと、見たまんまの自然のことしか歌ってないのに、
なんとも張り裂けそうな悲しみが伝わってくるという。
この言葉の妙、素晴らしさに、最近感動してしまうんですよね。

これはやはり実朝が、自然の偉大さに心打たれていたからこそ生まれた歌に違いありません。

 

去年の夏は何してたかな~って、スマホの写真を見たら、
去年も変わらず、浴衣着て、そうめん流したり、花火見たり、酔っ払ったり、
大体同じような事してましたけど、去年はいた人が、今年はいなかったり、逆もあったりで、面白いですね。
過去というものは、確かにあるんですけど、一体どこにあるんだろう。

 

今年も夏が終わりますね。
何して遊びましたか。