Otona no Kadaitosho

2020.09.9

柴崎友香『百年と一日』

柴崎友香さん久々に読みました。
 
時間、系譜、記憶、場所・・・そういったものを軸にし、人の繋がりが描かれています。
内容はいつもとは少し違う味わいだったけど、文章から受ける印象は変わらない。
淡いソーダ水の泡が、心の中でいくつも、絶え間なく、弾ける感じ。
爽やかで儚い。
 
記憶はどこにあると思うか。
そう聞けば、大抵の人が、自分の頭や胸を指し示すでしょう。
「記憶」というものは、自分の中にあるもので、
死ねば記憶も諸共消えてしまう、確かにそんな気もします。
でも実際の所、「記憶」が、本当に自分に付随するものかどうかは、死んでみないと分からないんですよね。
つまり、確かに実体としては目には見えないけど、本人が死んだ後でも「記憶」は残る、という可能性だってなくはない。
それこそ指紋みたいにべったりと、「記憶」も場所や物に張り付いているかもしれない。
読みながらそんな事を考えていました。
 
そういえば記憶について、ふと思い出したことがあって・・・
毎年の季節のお楽しみ。栗の季節になると、母が実家で採れた栗を渋皮煮にして、瓶詰めの状態で送ってくれるのです。栗は大好物だけど、剥くのが億劫だし、上手に煮るのは難しいので、毎年大変ありがたく頂戴しているのですが、
 
昨年の秋のこと。
例年通り栗の渋皮煮が届いたので、お礼を言う為母に電話したら、
「実はうちの渋皮煮は塩が入ってるのよ」と聞いてもないのに母が急に言いだして、
「普通は入れないんだけど、おばあちゃんが塩を入れてたからね」とのこと。
 
おばあちゃんというのは、父方の祖母の事で、母からすれば姑になります。
祖母が亡くなってからもう何年も経つし、今まで渋皮煮を何度も送ってくれていたのに、
母が祖母のレシピ(・・・という程のことでもないけど)を密かに踏襲していたなんて聞いたのは初めてで、
私は「ふーん」と言ったきりだったけど、そのやりとりはとても印象深く心に残りました。
なぜならその時、改築する前の実家の台所で、祖母がせわしなく立ち回っている姿が、驚くほど鮮やかに蘇っていたから。それと同時に、「もう祖母の姿を見ることはない」という事実が、はじめて確信になって胸に押し寄せてきたからです。
 
実際、祖母の作った渋皮煮の味はもうおぼろ気で、塩が入ってたかどうかすら思い出せません。
だけど、もし私が何かの気まぐれで、いつか自分で栗の渋皮煮を作ることになるとしたら、まず間違いなく塩を入れるだろうな。
きっとそれは甘辛い味に、湯気の中に立つ祖母の割烹着姿が張り付いているから。
それが母の記憶なのか、私の記憶なのかは、わからないですけど。