Otona no Kadaitosho

2019.08.4

言葉の強さについて

今日、森美術館でやっている塩田千春さんの展示を見てきました。
今考えている事にとてもリンクしていて、大変興味深かったです。
またなんというか、、やはり孤独、ある意味孤高であることによってしか、
生まれないものってあるなあと感じました。
うまくは言えないですけど、特に女性はそうかもしれません。
女性の性というものは、野性的でおおらかなものであって、もともと自然と近いものだと感じていて、

それゆえに、内へ、内へと追求していくためには、おおらかなものから、個=何某という窮屈な枠に戻る過程が必要であると思います。

それがすごく簡単にできる人もいるし、できない人もいる。

これはとても閉塞的な作業なので、必然、孤独でなければならないように思いました。

 

 

あと、展示とは全然関係ないですけど、
言葉の強さについて、改めて感じるところがありました。
作者の言葉とかを結構大きめに表示してある場合があって、
あれがあると、
作品を見て感じたものが、言葉の前で委縮してしまう、
言葉に収まってしまう感じがして、
言葉というものは本当に難しい。
そもそも言葉にならないものを作品にしているのだから、
やっぱり作品のすべてを作者でさえも言葉にはできないんじゃないかなと思います。

 

 

森村泰昌が、
作品についての作者の意図なんてのは、
嘘っぱちで、後から取って付けたもんだ。
みたいなことを言ってて、
ほんまにこの人めちゃおもろいわと思ったんですけど、
本当にそうかもしれません。

 

 

逆に言えば、
言葉って本当に強いということです。
限定してしまうということ。

ヴィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、
「世界とは言語が見る夢である」とあるように、
私達は言葉で世界を識別できているのです。

 

 

私はずっと、
作品において、
人を突き刺す言葉を探していました。
強く、印象に残り、ズンとみぞおちに来るような言葉。
それが作品の強さだと信じて、作ってきました。
だけど、この1年でその意識はガラッと変わって、
やはり芸術というものは、
息ができなくなったり、人を疲れさせるものであるわけはないと思っています。
くたびれた部分を治すものでなくてはならないと思っています。
塩田千春さんの作品は、
強いけど、くたびれるものではなかった。

 

 

人を突き刺すことは、強さではない。
そう感じています。
それは、言葉というものが、そもそも強いものだから。
言葉の力を今は信じているからです。

 

 

くたびれを治す言葉を
選び使いたいと、今は思っています。